歴史的遺産が原型と留めている今こそ好機!
戦後、歴史的遺産は経年劣化により、そのモニュメントやシンボル自体がどんどん崩れていっています。
あと10年後には、そのモニュメントやシンボル自体が存在していたのかさえ、わからないようなものも増えると思います。まだ辛うじてその存在や
全体像の見える、今のこの時期に、早めに戦没者の慰霊巡拝を兼ねて、現地に赴くことを当社はオススメいたします。
慰霊巡拝.net一押しモニュメント
【サマリンダ】
バリックパパンからサマリンダ迄の105キロの道を「死のサマリンダ街道」と呼ばれている。 1945年6月、バリックパパンに逆上陸してきた連合軍(主として豪州軍)を迎えて、戦力に劣る日本軍はサマリンダへ敗走、この街道だけで数千人が戦病死している。パリックパパンの空港から近いマンガル海岸には犠牲者を慰霊して「南方方面戦没者慰霊碑」が建っている。戦後BC級戦犯の方々はここで処刑された。又、軍人・軍属は復員迄の間、この地で収容されていた。サマリンダ街道・サマリンダ郊外には幾つもの日本人慰霊碑がある。写真はサマリンダ街道58km付近の最大の犠牲者を出した旧野戦病院跡。現在はこの碑のみがある。
【ビアク】
第二次世界大戦慰霊碑。日本政府が作った立派なビアク島戦没者慰霊モニュメントビアク支隊は海岸線の後方に東西2つの巨大な鍾乳洞を発見し、西洞窟にビアク島の司令部を定めた。ビアク島を絶対国防圏の最前線と位置づけ、陸海軍約1万2000の兵力を配して飛行場群の整備を進めた。海軍の敗退により食糧弾薬の補給は途絶え、米軍は立て篭もる洞窟にガソリン入りのドラム缶を投げ込み、火炎放射器で焼いた。日本の降伏後の1945年9月24日、生き残り86名が収容された。後に「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島(戦死12,347名、生還86名)」と称される程の悲惨さである。
【タラカン島】
タラカン島の戦いは蘭印作戦の一つ。1942年1月11日。坂口支隊と呉第2特別陸戦隊はボルネオ島北部の油田地帯タラカン島に上陸。タラカン島は蘭印軍1,400名が守備をしていた。降伏後、沿岸砲による砲撃で日本軍の掃海艇2隻が撃沈され、海軍は戦死者156名を出した。オーストラリア発表では1540名とも
【ブンクル】
大東亜戦争におけるスマトラの戦地としてはあまりり馴染みの薄い地ではあるが、とても重要な地域でもあった。旧日本軍の駐屯地・野戦病院があったのだ。今ではその面影は全く無いが当時を知る地元の人の案内でやっと確認が取れるという具合。
[南スマトラ郊外第9練成飛行隊(第9飛行師団)駐留跡地]
写真は「南方第9陸軍病院ベンクーレン分院跡地跡地」今では地元市民の墓地となっている。
【サンダカン日本人墓地(マレーシア・ボルネオ島)】
サンダカンにはボルネオ島の統治本部が置かれていたため多くの日本人が滞在していた。戦争末期にには連合国軍の激しい爆撃を受け、サンダカンから捕虜2500人を今の州都コタキナバル近くまで徒歩移動させた、今で言う「死の行軍」では捕虜・日本兵ともども途中で飢餓と病に次々倒れ最終的に目的地たどりついのは数人という過酷さであった。
当時サンダカンで亡くなった日本人が眠っているのがここ日本人墓地である。日本人墓地の入口近くに当時抗日運動で亡くなった中国人の碑があり、日本人にはつらい光景であるが目を逸らすまい。
軍人だけでなく女性名も多いがこの多くは娼館の「からゆきさん」である。サンダカン港見下ろす丘にあり墓が日本の方を向いているという哀しみをさそう。
今サンダカンはオランウータン他の動物観察の基地的な場所として観光でにぎわっているが、私どもでは観光のついででも希望があれば日本人墓地への参拝ができるよう取り計らっています。
また事前に行きたい場所等、情報をいただければ対応させていただきます。
あまり情報の無い場所についても、現地スタッフに問い合わせて、
ニーズがございましたら催行することも可能です。お気軽に当社にお問い合わせくださいませ!