戦争当時の地域的状況
「大東亜」とは 概ね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びに、概ね東経180度以西、すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指し、インド、豪州は含まれない地理的区分
インドネシアの地域的情報
日本軍が入る前のインドネシア
日本軍の進出と統治時代
多くの日本兵は欧米諸国の植民地支配から東・東南アジアを解放、大日本帝国を盟とする共存共栄の新たな国際秩序建設するものの戦いと信じている。この秩序を「大東亜共栄圏」と称した。
南方進出したインドネシアも激戦地となり、各地で多くの犠牲者を出した。ジャワ6500名・スマトラ3200名・セレベス5500名・ボルネオ18000名・モルッカ4400名。小スンダ西ニューギニア82600名(呼称は当時の物)
オランダの植民地支配が1942年日本軍の東インド一帯への侵攻によって瓦解し、東インドは日本陸軍の軍政下に置かれ、台湾支配のノウハウをインドネシアに応用。日本はインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大網にもとづき東インドを大日本帝国領土とし軍政を敷くものの、しかるべき後に独立させる方針を決定。
日本はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、日本軍政への協力を求めた。スカルノ、ハッタは日本軍政当局による人員、資源などの動員に協力、与えられた公的ポストを活用して民衆の民族意識を鼓舞し、またこれに対し日本軍政当局の一部も協力した。これに併せて日本はオランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認めた他、オランダによる愚民化政策を受けてこれまで行われていなかった、一般国民に対する初等教育から高等教育に至る教育制度の充実、インドネシア語と日本語による教育を行った。
また、日本は1943年中盤以降のアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足。こうして日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たす。
同時期に日本はインドネシアの独立の方針を推し進め、1944年9月インドネシア国旗の掲揚と国家斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足、同年8月17日にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、日本もこれを承認した。
日本敗戦後
1945年8月15日、日本がオランダを含む連合国に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタで独立を宣言した。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかった。
独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部がばら撒いたり横流しした武器や弾薬で武装化した。この独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人2,000人も加わって最前列に立って戦い、その結果、敗戦から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人が命を落とした。
こうした武装闘争と外交努力の結果、1949年12月インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功した。
独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定
大東亜共栄圏
南方作戦
蘭印の資源攻略 第16軍の兵力は、第38師団、第48師団、南海支隊などの配属後は人員97,800名、外に航空部隊の地上勤務員10,000名
主な資源
- 石油
- 鉄鉱:ボルネオ島・セレベス島、埋蔵量10億トン
- ニッケル:ビンタン島、年産40万トン
- 錫:スマトラ島付属バンカ・ビリトン・シンケップ等、年産3-4万トン
- ボーキサイト:ビンタン島、年間40万トン
- マンガン:ジャワ島チラチャップ・スマラン・スマトラ島ベンクレン・ビンタン島・バンカ島・ビリトン島等、年産1万2千トン
- ゴム:年産45万トン、世界の1/3
- カボック綿:世界78%産出
- 砂糖:世界三大産地の一つ
- 世界屈指のリゾート地「バリ島」も戦地であった。
- 終戦後独立宣言、しかしオランダとの独立戦争勃発
- 在留日本兵の一部が独立戦争へのインドネシア軍に同調協力
- 日本兵による農業指導により農業力向上
- 敗戦から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人
- インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人も数多い。
- 戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった
- 日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れインドネシアに残留した者
- 日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者
- 独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定
- インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たち
日本時代のインドネシア
日本軍が入る前のマレーシア
(ボルネオ島北部)の一部の州を実効支配していた。
日本軍の進出と統治時代
西マレーシア(マレー半島側):
1941年12月8日、真珠湾攻撃の1時間50分前に
日本がマレー半島東北部のコタバルに上陸、これが実際上太平洋戦争の始まり
となる。12月10日にはマレー沖海戦が行われイギリス軍戦艦撃沈し日本軍が勝利。
コタバルからの部隊は半島東側を、次いでタイ側から上陸した部隊は半島西側から、上陸後日本軍は驚異的な速度でシンガポールを目指し南下する。シンガポールはインド洋と太平洋を結ぶマラッカ海峡に面した海上の重要拠点でありシンガポール
を獲得することがマレー半島上陸の主目的であった。多数の地上戦を経て翌1942年
2月にイギリスと講和しシンガポールを獲得。シンガポールを含むマレー半島部全域
を支配するに至る。
東マレーシア(ボルネオ島北部):
西マレーシアにやや遅れて、ラブアンを入り口に油田のあるミリ(サラワク州)と
中心的位置のコタキナバル(当時はジェッセルトン・サバ州)、油田と軍港のある
ブルネイ(現在のバンダリスリブガワン)、東海岸側のサンダカン(サバ州)方面に展開した。
日本敗戦後
西マレーシア:
戦争終結により日本軍は撤退するが入れ替わって進出したイギリス
による植民地支配される。1946にイギリス主導によるマラヤ連合がつくられる。
その後マレーシア連邦を経て1963年にマレーシア連邦として独立。
東マレーシア(ボルネオ島北部):
戦争末期には各地とも連合軍の激しい空爆を
受け、油田を破壊しながら日本軍は撤退。サンダカンからコタキナバル方面へ
連合軍捕虜とともに大量撤退する途中大半が途中で死亡する「北ボルネオ死の行軍」などが知られる。戦争終結後、サラワク州、サバ州はマレーシア連邦に加入し現在に至る。なお両州に挟まれた一部地域はイギリス領を経て後にブルネイ王国として独立する。